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パソコン通信の模索から電子の国へ

コンピュータネットワークはデータベースで使うよりも、人と人とのコミュニケーションの方が楽しいということがわかるようになり、あっという間に日本中に広がっていった。特に大分から始まった私たちのコアラは、他が趣味型あるいは技術指向型であるのに対して、地域社会型で最も一般社会人への広がりが早く、東京の人たちがみんなコアラに入ってくるという感覚で、大変盛り上がった。その勢いで一年がかりで富士通と共同開発で初の日本語の本格的電子会議システムをつくったが日本各地で使われたりもした。
 しかし次第に難しい問題が起こってきた。それは電話代。

その頃市内通話料は310円で、1時間使うと200円。しかし東京に電話すると1時間8000円かかった。つまり東京からコアラにつないで読んだり書いたりすると高額な請求書がくる。「何とかしてくれ」と東京の利用者に言われたがどうにもできない。当時は「パケット(=小包)通信」というのがあり、電話の声をデータにして送るという、今ではすべてのネットワークの基本概念になっているが、唯一KDD(現KDDI)だけが個人が使えた。それでアメリカに通信すれば1時間4000円。大分に住んでいたら東京よりもアメリカの方が近い。一面では、電話料金の高さが“地方”をつくっていたといっても過言ではないだろう。

その状況を何とかしたいと思い、「パケット通信」を国内でできるようにしようと考えた。インテックという富山の会社だが、全国規模の大きな会社がある。たまたまインテックの社長が大分に講演に来た。その会社がパケット通信の技術を持っていたので、講演終了後、エレベータの中まで付いて行き「私たちにパケット通信を使わせて欲しい」と直訴したが、社長は快活に応えてくれるが返事内容は曖昧。しかし社長に付き添いの若い人が社長を見送った後、「尾野さん、ぜひやろう」と言ってくれた。結果、1時間8000円が一気に1時間800円になり、東京の利用者が「生き返った!俺たちも大分につながった!」と喜んでくれ、本来、何事につけ我々が「東京につながった」と喜んでいたのが、この時ばかりは「大分につながった」と東京人が喜ぶ、一種、逆現象が生じたわけだ。つまり当時、大分の方が情報先進地で次々と情報を発信していたという証拠だろう。ちなみに彼は後に社長表彰を受けたのだが。
 ところがあちらを立てれば、こちらが立たずで、今度は日田の人たちから苦情が出てきた。
 「電話料金では日田がコアラに一番遠い」と。
 「1時間2400円だ。東京は800円で、どうして私たちが2400円だ。東京びいきだ。日田の事を考えてない」

と怒る。何とかしなければと考えていると、タイミングよく、竹下総理大臣が「ふるさと創生資金」として市町村に1億円出すという。全国市町村のアイデア合戦が始まった。

そこで、県内どこからでも同じ料金でコンピュータ通信ができるようにその資金の一部を使えたらと考えた。まず平松知事がそういう通信環境を大分のビジョンの一つとして取り上げてくださり講演などで話をされ、さらに日田出身で後に通産大臣に就任された畑英次郎代議士が週末大分に帰ってきては、各市町村長を訪ね説得してくれた。さらにはその市町村長からの問い合わせを受けた県職員がパソコン背負って市町村に出向き説明をする、というまさに頭の下がるような縁の下の力持ちに支えられ、そしてできたのが、第一次“豊の国ネットワーク”だ。_1_3
 ふるさと創生資金でつくった日本で初めての“情報道路”だった。大分県内どこからでも市内電話料金で通信ができるネットワークが完成。当時はクリントンもゴアもいなかった。ゴアさんは議員で情報ハイウエイ構想の提唱者だったが、まだペーパーの段階で、そんな時にいち早く大分という日本の中でも九州・大分という場所で“情報道路”をつくってしまったものだから英字新聞に「インフォメーションロードが大分にできた」と載ってしまった。すると次から次に見学者がやってくる。

特に国の関係者はどういうことか、と驚いてやってきた。「電子の県土ができたのと同じです。その上に建物を建てるのと同じようにいろいろなシステムをつくればいいんです。メールが使える、掲示板が使える、データベースが見れる、そういったひとつひとつのシステムをつくっていけばよいから、電子の県土の上に電子の国をつくっていく、そういう発想だ」と説明すると納得してくれた。

 すると通産省が、「これからはコンピューター通信が国を動かすほどのものになりそうだが、国そのものの発展を考える時には地方を大事にしなければならない。そのためには研究所をつくってはどうか」といってくれた。そうしてできたのが「ハイパーネットワーク社会研究所」だが、現実のものになるのに3年かかった。通産省と郵政省が初めて合体した研究所で、しかも東京が本部ではなく大分が本部でしかも本省管轄という研究所ができた。もちろん九州内にも通産省系の研究所はいくつかあったが、全部九州通産局どまり。ところが大分県だけ、突然のごとく本省管轄しかも郵政省と合体した研究所ができたわけだ。すると情報量が全然違う。

そして国を構成する地方・地域には何が必要か/何ができるのか/どうつくるのか、そのモデルとしての大分、そして“モルモット”がコアラということで、コアラとハイパーネットワーク社会研究所、通称ハイパー研が両輪の輪として動くようになった。これはアメリカのシリコンバレーあたりでは通常のあり方で(我々の場合はあまりにも小さい例だが)、実践モデルと研究所が併設してあるというのが新しい事が起こる「モト」だったと思う。

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