COARA---コアラとは

 「コアラ」は1985年5月発足した地域運動のグループである。

2005年5月に満20歳を迎えたが、当時大分県知事の平松守彦知事が提唱した「一村一品運動」の情報化版地域おこしとして始まった。

「一村一品運動」というと、農産物や加工品が有名だが、その頃電気工事会社の常務取締役をしていた私が今さら農産物をつくるのは不可能に近い。しかし我々若手経営者層を中心に平松知事の声に呼応して「地域おこしをしたい」、「大分にいることを楽しみたい」、「街中で何かできることを探そうじゃないか」といった思いが膨らんでいった。そこで本来コンピュータが専門だった私は、友人や仲間に声をかけ、コンピュータと電話線を使い、人とコミュニケーションをするといった事を考え始めたのだ。しかし当時は、今では想像もつかないだろうが電話とコンピュータを勝手につなぐことは法律で禁止されており、それが1985年、NTTが民営化、株式会社化され、同時にコンピュータと電話線をつないでよいという制度に変わった。そんな時代背景を受け、やってみようじゃないかと手探りの第一歩を踏み出したわけだ。

当時、アメリカではおぼろげながらコンピュータと電話線をつなぐ新しい世界が見え始めていたものの、はっきりとした先が見えないまま私は一歩を踏み出したのだが、何が起こったか。

今はインターネットがあるから当たり前だが、コンピュータのネットワークの中に、例えば「私は大分に住み電気工事会社に勤めている」と書く。すると東京のAさんが「私も電気工事会社に関係している」と書いてくる。それまでは例えばテレビにしても東京からの放送を受け取るだけだった。つまり東京が主人公。地方はいつも受け手。学校に行っても、先生の授業を受けるだけ、生徒は聞くだけといったようなもの。話す側と聞く側がはっきりわかれていたのが、このようなコンピュータネットワークができたおかげで、パソコンと電話線がある人はどこからでも自由に発言でき、見る人は自由に見ることができる。しかも自分の都合のよい時間に発言でき自分の都合のよい時間に見る事ができる。普段だとなかなか話しかけられないような偉い人にも声を発することができる。これは当時としては非常に画期的な事だった。インターネットの前身である。

平松知事もコアラに即座に入られたが、高校生が自分の家の前の終バスをもっと遅くしてくれとかメールする。すると、平松知事が都合のいい時に見て検討する。普段だと絶対に話しかけられない人に話しかけ、かつ常に聞く側だった人に返事が返ってくる。つまり双方向のコミュニケーションが発生してきたのだ。返事が返ってくるということはある意味、自分自身の存在が認められるという嬉しさになる。私は団塊の世代であって大人数の中で生活した関係上、それまで名無しの権兵衛、その他大勢の一人という感覚が強かったが、地域にいても「こんなことをやっている」というと「それは面白い」とか、時には「そんな馬鹿な事やってるのか」とからかいながらも、存在を認めてくれる。これはとても勇気のわく事だった。すると他の人の発言にも返事をしたくなってくる。そして一対一のお互いが認め合う社会ができ、世の中を肯定する社会になる。つまりはお互い同士の存在を肯定しあう社会ができ、そこには人間の明るさがでてくる。電話線とパソコンさえあれば、人と人が信頼しあえるようになる、ネアカになるんだと。それが1985年5月に「ネアカ、ハキハキ、マエムキ」というキャッチフレーズでスタートしたコアラだ。会長は現臼杵市長の後藤国利氏(当時は青年会議所のリーダであり若手県議会議員)で、約30人ぐらいが集まり一人千円づつ出しあいつつ、大分市のソフトパークにある情報センターで始まった。

パソコン通信の模索から電子の国へ

コンピュータネットワークはデータベースで使うよりも、人と人とのコミュニケーションの方が楽しいということがわかるようになり、あっという間に日本中に広がっていった。特に大分から始まった私たちのコアラは、他が趣味型あるいは技術指向型であるのに対して、地域社会型で最も一般社会人への広がりが早く、東京の人たちがみんなコアラに入ってくるという感覚で、大変盛り上がった。その勢いで一年がかりで富士通と共同開発で初の日本語の本格的電子会議システムをつくったが日本各地で使われたりもした。
 しかし次第に難しい問題が起こってきた。それは電話代。

その頃市内通話料は310円で、1時間使うと200円。しかし東京に電話すると1時間8000円かかった。つまり東京からコアラにつないで読んだり書いたりすると高額な請求書がくる。「何とかしてくれ」と東京の利用者に言われたがどうにもできない。当時は「パケット(=小包)通信」というのがあり、電話の声をデータにして送るという、今ではすべてのネットワークの基本概念になっているが、唯一KDD(現KDDI)だけが個人が使えた。それでアメリカに通信すれば1時間4000円。大分に住んでいたら東京よりもアメリカの方が近い。一面では、電話料金の高さが“地方”をつくっていたといっても過言ではないだろう。

その状況を何とかしたいと思い、「パケット通信」を国内でできるようにしようと考えた。インテックという富山の会社だが、全国規模の大きな会社がある。たまたまインテックの社長が大分に講演に来た。その会社がパケット通信の技術を持っていたので、講演終了後、エレベータの中まで付いて行き「私たちにパケット通信を使わせて欲しい」と直訴したが、社長は快活に応えてくれるが返事内容は曖昧。しかし社長に付き添いの若い人が社長を見送った後、「尾野さん、ぜひやろう」と言ってくれた。結果、1時間8000円が一気に1時間800円になり、東京の利用者が「生き返った!俺たちも大分につながった!」と喜んでくれ、本来、何事につけ我々が「東京につながった」と喜んでいたのが、この時ばかりは「大分につながった」と東京人が喜ぶ、一種、逆現象が生じたわけだ。つまり当時、大分の方が情報先進地で次々と情報を発信していたという証拠だろう。ちなみに彼は後に社長表彰を受けたのだが。
 ところがあちらを立てれば、こちらが立たずで、今度は日田の人たちから苦情が出てきた。
 「電話料金では日田がコアラに一番遠い」と。
 「1時間2400円だ。東京は800円で、どうして私たちが2400円だ。東京びいきだ。日田の事を考えてない」

と怒る。何とかしなければと考えていると、タイミングよく、竹下総理大臣が「ふるさと創生資金」として市町村に1億円出すという。全国市町村のアイデア合戦が始まった。

そこで、県内どこからでも同じ料金でコンピュータ通信ができるようにその資金の一部を使えたらと考えた。まず平松知事がそういう通信環境を大分のビジョンの一つとして取り上げてくださり講演などで話をされ、さらに日田出身で後に通産大臣に就任された畑英次郎代議士が週末大分に帰ってきては、各市町村長を訪ね説得してくれた。さらにはその市町村長からの問い合わせを受けた県職員がパソコン背負って市町村に出向き説明をする、というまさに頭の下がるような縁の下の力持ちに支えられ、そしてできたのが、第一次“豊の国ネットワーク”だ。_1_3
 ふるさと創生資金でつくった日本で初めての“情報道路”だった。大分県内どこからでも市内電話料金で通信ができるネットワークが完成。当時はクリントンもゴアもいなかった。ゴアさんは議員で情報ハイウエイ構想の提唱者だったが、まだペーパーの段階で、そんな時にいち早く大分という日本の中でも九州・大分という場所で“情報道路”をつくってしまったものだから英字新聞に「インフォメーションロードが大分にできた」と載ってしまった。すると次から次に見学者がやってくる。

特に国の関係者はどういうことか、と驚いてやってきた。「電子の県土ができたのと同じです。その上に建物を建てるのと同じようにいろいろなシステムをつくればいいんです。メールが使える、掲示板が使える、データベースが見れる、そういったひとつひとつのシステムをつくっていけばよいから、電子の県土の上に電子の国をつくっていく、そういう発想だ」と説明すると納得してくれた。

 すると通産省が、「これからはコンピューター通信が国を動かすほどのものになりそうだが、国そのものの発展を考える時には地方を大事にしなければならない。そのためには研究所をつくってはどうか」といってくれた。そうしてできたのが「ハイパーネットワーク社会研究所」だが、現実のものになるのに3年かかった。通産省と郵政省が初めて合体した研究所で、しかも東京が本部ではなく大分が本部でしかも本省管轄という研究所ができた。もちろん九州内にも通産省系の研究所はいくつかあったが、全部九州通産局どまり。ところが大分県だけ、突然のごとく本省管轄しかも郵政省と合体した研究所ができたわけだ。すると情報量が全然違う。

そして国を構成する地方・地域には何が必要か/何ができるのか/どうつくるのか、そのモデルとしての大分、そして“モルモット”がコアラということで、コアラとハイパーネットワーク社会研究所、通称ハイパー研が両輪の輪として動くようになった。これはアメリカのシリコンバレーあたりでは通常のあり方で(我々の場合はあまりにも小さい例だが)、実践モデルと研究所が併設してあるというのが新しい事が起こる「モト」だったと思う。

ついにインターネットへ,“one person one homepage”運動

 パソコン通信の原型が1985年にできたが、俗にいうインターネットが19947月、大分のコアラでも始まった。これは199312月に始まった東京に次いで全国で2番目だ。地方では最初だった。当時、我々がインターネットにつなぐと、英語のホームページばっかりで、それも大学の研究者のものか大企業の研究所のホームページぐらいしかなかった。今では当たり前になっている日本語のホームページなどほとんどなかった。「日本語で書いていいのだろうか」と本気で心配したりした、今では冗談のように聞こえる。

しかし、果敢にコアラメンバーが挑戦し、「アップルコンピュータは、“one person one computer”、平松知事は“one village one products”、我々は“one person one homepage”」と称して個人がホームページを造るのが当たり前という動きとなり、大いに賑わった。

当時、NTTは「NTTは電話交換機屋であって、インターネット屋ではない」という企業方針の元でインターネットに対して抵抗感を示していたが、一部幹部には「そうだろうか」という疑問を抱き始めていた人もいた。そしてコアラのメンバーが「楽しんでいる世界」を目の当たりにすると「未来の情報社会、インターネットをやりたいので協力してくれ。共同研究者を公募するから立候補してくれ」といってきた。そこで24時間365日常時接続できるインターネットが欲しい。安く定額使える社会を使える社会をつくろうじゃないかと。いわゆる「情報コンセント構想」[i]で応募した。

また、このような事をやっているのは大分しかなかったので、1995年の夏だっただろうか、通産省から呼び出しがかかった。NTTの話が起こる数ヶ月前の事だった。

「8億円出すから何かしてくれないか。インターネットで何か新しい事をやって欲しい。インターネットの事がわかっているのはあなたの地域しかない」。

8億円の予算を組んだので何か新しい事をやってくれという話だった。しかし何をつくっても維持しなければならない。維持費を考え慎重になっていると、「中小企業データベースという昔からのシステムがあるので、それをインターネット型にかえなければならない。変えるのに毎年1億円あげよう。つまり5億円5年間あげればそれで維持できるだろう」と。そこで平松知事に相談すると即座にやれと。加えて郵政省にも協力してもらおうと郵政省に2.4億円出してもらい、結果的には総額2425億円かけて大分の新しいインターネットの初歩的なシステム、データセンターやインターネット放送スタジオ、地域型光ファイバー接続等を一気につくった。結局、今でいうNTTのアクセスポイントも全国に先駆けて全県にできてしまった。それらを使って第二次豊の国ネットワークがインターネット型として再構築されたわけで、1996年から97年に掛けてのことだった。

しかし、多額の投資投下がなされている以上、実際の構築はまだまだわかっている人が少なくナイフの刃の上を歩く思いだった。当時のNTTは、インターネットに関してわかる人はいても組織的に確立されていなかったので、打ち合わせに出席すると1:50、話すのは2,3人だが研究所の人たちが50人出席していて、今思い出しても非常に“不気味”だったが、しかしその人たちが日本のインターネットをつくっていったわけで、日本のNTTのインターネットの夜明けといっても過言ではないだろう。

 COARAスタートから20年、毎回毎回、「産みの苦しみ」の中でもがき溺れそうになりながらも、そのたびに新しい事にチャレンジしつくりあげていく面白さと意義を多いに感じる一コマだった。


[i] 地域に情報コンセントを!
http://www.coara.or.jp/coara/common/hyper/jyohoconsent.html
を参照

ハイパーネットワーク社会研究所

_1_1 ハイパーネットワーク社会研究所のできるまでに関しては先に述べたが、同研究所では1年に1回、あるいは2年に1回の割合で国際会議を開き、国内外から多くの参加者をえていた。IT関係、インターネット関係、ネット関係の主だった関係者は必ず、過去において一度はコアラ、ハイパーネットワーク社会研究所にきている。あの楽天の三木谷社長もきている。「別府湾会議」という名前で10年間継続して開催してきたおかげで「私も別府湾会議に出たことがあるよ」というのが、そういう人たちのひとつのステイタスになったと感じるほどだった。

 そんなことから結局、「情報発信すると世界中から人が集まってくる」、「情報発信すると観光になる」という事を経験として実感した。名勝名物見学するより、人に会いにきてくれる。面白い事が起こっている「地域おこし」に人が集まる。観光とは何かというということを違う形で感じる一つのきっかけになったことは事実だ。

日本初のADSLは大分から

1997年4月、アメリカが、私の望むままに国内を見てよいというチャンスを1ヶ月間与えてくれた[i]。まず私の希望をもとに、どのような所に行き、どんな人と会うといいとかアドバイスしセッティングしてくれ、しかもその間、通訳を1ヶ月間つけてくるという、まさにアメリカの懐の深さ、広さを感じさせてくれるプレゼントだった。その時、すでにアメリカではADSLが当たり前になっていた。帰国後、シンガポールに行くと国家コンピュータ庁でもADSLを使い始めており、動くアニメーションを子供たちがインターネットで見ている。「日本は遅れている!」と嘆いたが、更に続いて韓国で始まり、これはたいへんだ!と、落胆すると同時に危機感がつのるばかりで、いろんな機会に「遅れてしまう」といい続けていると最終的に郵政省が動き、西日本NTTがCOARAをモデルにしてやることになった。この時もNTT東日本より一週間早く実現でき、文字通り日本で最初のADSLが大分から始まった。

この時、東京や福岡、大分以外あちこちで指摘を受けたのが、「大分は宝の持ち腐れだ」と。「これだけの事が大分から始まっているのに、大分の人たちはその“すごさ”を知らない。もったいない」という。私自身も願うところ大であり、広く大分の人々がCOARAが大分にあるということで、大分に生まれ生きる事に胸を張れる一つになってくれればと思っている。


[i] USIAアメリカ招待旅行

http://www.coara.or.jp/TOPIC/USAono/USA_ono.htmlを参照

臼杵のネット化・第三次豊の国ネットワーク=ハイパーネットワーク

それに引き続き、臼杵市の動きが面白いことになった。

臼杵市長として財政再建に目処を付けたコアラの後藤会長から依頼があって、臼杵市向けにいくつかの情報戦略を考えたが、ちょうどバブル崩壊後の景気対策投資が行われた時期であり、それらをうまく使って臼杵市全域に各家庭にかなり近いところまで光ファイバーを引き回した未来的CATV網を23億円かけて造ることが出来た。それだけでなく地域振興施設としての市民ふれあい情報施設など次々と数億円かけて造ることとなったが、肝心のバックボーン(世界につなぐインターネットの元ネット)が臼杵に無く、それこそこのままでは宝の持ち腐れになってしまう。

Photo_1  そこで県に第三次豊の国ネットワークを光ファイバーでギガビット網として造りましょう、様々にどのルートなら光ファイバーを通せるか地形を調べ23億円程度で出来ること等を記した提案書
[i]をハイパーネットワーク社会研究所の大分責任者として大分県に持ち込んだが「そんなのは無理ですよ」となかなかのってこない。特に、大分の情報化は私達が過去かなり強引気味に引っ張ってきて全国初を積み重ねた弊害か、県庁職員に「そこまでしなくても」という反動が強かった。

しかし、それでは困る臼杵市長は海外出張から帰ってきた平松知事を福岡空港まで押しかけて直訴。そういったことからか、私は東京で知事と当時の郵政省の通信政策局長との昼食勉強会をセッティング。その結果、第三次補正予算が余ればそれを使って「複数市町村をまたがる情報化施策例としての光ファイバー敷設」に支援いただけるような配慮をいただいた。そして3ヶ月ほど経った頃うれしい知らせとして16億円の支援が決まり第三次豊の国ネットワーク建設が三カ年計画としてスタートした。当時は九州電力もNTTも光ファイバーを貸し出すスキームが無く、大分は独自に光ファイバーを工事して敷設するというまさに公共投資型のどこにもない資産保持型のネットとなったわけであり、未来への利用が様々に夢ふくらむものであった。しかし、そのギガビット幹線の完成時、県がそのギガビット網を“ハイパーネットワーク”と名付けてしまったのには驚いた。ハイパーネットワーク社会研究所を造った時、未来ビジョンとして“ハイパーネットワーク”として説明してまわったものは、もっと先のバーチャルリアリティ通信まで含んだ新しい地域社会システムの一環として考えたものなのに。


[i] 第3世代豊の国ネットワーク「豊の国ギガネットワーク企画書(案)」http://info.coara.or.jp/HyperNetwork/hyper/hyper2/giga/toyonokuni/を参照

コアラの株式会社化

 さて、その時期(2000年)、県・通産省の事業の一環としてハイパーネットワーク社会研究所と一緒にインターネットを県民むけにサービスしてきたことに、同業者が(県・通産省事業でコアラを利用する中からスピンアウトして)生まれ育ったことから税務署が税金を支払うよう通達してきた。過去の事業(1996年以降)総てを対象にしており、県庁担当者は多いに慌てたが結局は支払わざるを得ない。しかし、過去のコアラは同好会式の決算であり毎年きれいに残余金を残さず設備更新に使い切っており、その設備投資額が利益と勘定されるが、残余金が無いのでどうしようもない。仕方がないので二階堂酒造さん初めとする一村一品企業に出資をお願いして株式会社としてお金を集め税金を支払った。

 更に、ADSL・ブロードバンドに変わった瞬間に、維持を含め多額の資金とより専門的な技術スタッフが必要になってきた。ちょうどその時期、たいへん重要な地域変革要因だが大分に福岡への高速道路が開通した。それにより大分は福岡経済圏に入り福岡中心主義の傾向が強くなった。大分営業所が閉鎖され始め、福岡から日帰りで営業するようになる。「九州は一つ」といっても大分に住む我々にとっては隣県宮崎は陸路4時間もかかる処でありその実感がないが、福岡の人たちにとっては確かに九州域内は総て日帰りできて「九州は一つ」そのもの。本当に大分の事を思えば、福岡を何らかの形で意識しなければならないと考え始め、福岡の拠点強化を図り、COARA自体も組織的にボランティアの支えだけでは無理な規模になったということもあり九州電力が筆頭株主の株式会社となった。

 福岡にデータをおけば、全九州、アジア、全世界がより近くになる。そこで福岡市内に独自にギガビット幹線網(MAN:メトロポリタン・エリア・ネットワークと呼ばれた)とデータセンタ、そしてADSLサービス網を独自にいち早く構築し、結果的に大分の第三次豊の国ネットワークと福岡県営のギガビット幹線網に総て直結したブロードンバンド・コンテンツサービスの基礎設備を得たこととなる。

天神コアラ、三重コアラ

 その福岡では天神コアラ[i]として活動を強めているが、ブロードバンドとしては動画コンテンツがより注目された。

 福岡市はインディーズミュージシャンが多いことから福岡市の公式音楽振興ポータルサイトの構築を提案コンペで、(数ある公募の中から)我々の提案が採択され映像ビデオを含めて制作したり、RKB毎日放送のTVニュースを365日、ネット映像に変換してインターネット放送を行ったり、西日本新聞社と共同してホークスやアビスパなどのスポーツネタを使った毎週の動画放送を行ったり、、、と、96年から蓄積した動画ノウハウがそれなりに活かされている。昨今では福岡県庁の知事記者会見を含む動画サイトの構築運営をも担当している。

 また、太いバックボーンやデータセンター、そこに入れるサーバ構築技術、そのサーバーに入れるプログラミング技術、そしてコンテンツ制作力、更には利用者を会員として扱い、かつ全体を安定継続的に運営するノウハウなど、インターネットに関して下から上まで総てを一貫して担当できる総合力を買われて様々な仕事のチャンスをいただいている。

 勿論、そのような仕事を通じて、地域にこだわるコアラユーザ向けに様々な新しい独自コンテンツを挑戦的に開発し、届けることこそ大事だと考えている。

 また、その地域向けのコンテンツのあり方を三重県が興味を持ち、元コアラスタッフの提案に三重県庁が資金支援し、三重コアラ[ii]200311月に発足した。


[i] 天神コアラ http://tenjin.coara.or.jp/ を参照

[ii] 三重コアラ http://icap.coara.or.jp/abouticap/を参照

新しい地域興しとしてのNPO観光コアラ

 その新しさに挑戦することの一つがNPO観光コアラ だろう。

 観光市場は団塊世代を中心として、2010年まで模拡大すると考えられており、さらにその後は中国等からの観光客の増加、すなわちアジアの観光暴発が見込まれている。つまり今後しばらく観光産業が発展していくと推測できる。そこに市場性や我々の楽しさを求めていくというのは自然な動きだろう。さらに従来、わが国の旅行といえば団体旅行が主であったが、89.5%が個人旅行という時代なっており、その内訳をみると家族旅行、友人同士、カップル等で、いずれも必ず女性が入っている。そしてこの女性が行き先を含め旅行に関する主導権を握っているといっても過言ではないだろう。そこで、私は今後このムーブメントを大事に考えることによって、コアラの今後の方向性も見えてくるのではないかと思っている。

 中でも、今や湯布院といえば、全国でも「行きたい温泉地」の1.2を争う観光地で圧倒的に個人旅行が多く、しかも一人あたり宿泊単価も九州の中で一番高く2万円代となっている。決して高い事がすべてイイとは言えないだろうが、湯布院の場合、宿、食事等に関する「質」に徹底的にこだわり、その上質の日常生活感を醸し出した結果の価格といえよう。つまり湯布院をモデルにして考えれば、今後の観光が見えてくる事は明白だ。
そこで私たちはNPOをつくり、観光をITで支援し、しかも女性の視点でやっていこうと考えた。「こんなに素敵な場所がある、こんなに美しいものがある。こんなに美味しいものがある。こんなに楽しい人がいる」と。つまり女性の視点で情報発信していくことが観光につながり、しかも湯布院をモデルにしていくことこそ面白い、と、2003年11月「NPO観光コアラ」が誕生した。

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 さっそく、2004年7月には女性が主人公の"シンデレラシンポジウム"を行ったり、ホームページ作り勉強会を行ったり、と、様々に挑戦。更に由布院旅館の皆様がインターネット予約に地域全域で取り組む糸口を見いだせずにいることを知り、旅館組合専用の地域型ネット予約システムを開発提供したりした。その予約システムの開発には(株)コアラが協力したが、由布院旅館の様々な特殊な事情を組み込むのに思いの外てこづり、なんと丸一年かかったが、それだけに好評で、昨今はレストラン予約システムとしても稼働している。

 更に、2005年7月、経済産業省の交流促進事業の一環として由布院を舞台に食の魅力をアッピールし宿泊交流客を増加させようというプロジェクトがスタートした。具体的には、他の観光地には見られない旅館の垣根を越えて各旅館の料理人で構成される由布院料理研究会の皆様をアッピールし、ネット観光地図でそれらをわかりやすく案内、ネット予約に結びつけようというもので、kanko-mapシステムとして準備中。国内ではそのような取り組み先例が無く、唯一スペインに似たグループがあると聞き調査に行ったり、NPO観光コアラの活動に賛同する主婦の方々にコンテンツ作りをお願いしたり、と、仕込み中。
Kannkomap
 折りしも、NHK連続ドラマ"風のはるか"が10月から由布院を舞台に食テーマでスタートすることから、今後益々由布院の食は上質で癒しあるものすてきなもの~今言われ始めている"LOHAS な由布院"として育っていくことが予想され、NPO観光コアラとしても大いに頑張ってみたいと思っている。

北部九州四産業文化の中の温泉文化産業で世界を目指せ!

 その先に何を目指すか?

もちろん、ハイパーネットワーク社会研究所設立時に願った未来のネットワークビジョンを実現することを願いつつ、それらをベースにした地域社会ビジョンをどうとらえるか?Hokubu_1

今、大分を含む北部九州は、世界の工場と言われるほどになってきた。

北九州から大分北部の一帯はそれこそ“自動車産業文化圏”そのものであり、それも世界戦略工場ばかり。その従業員は軽く30万人を超え、年間工業出荷額も2兆円を超えているが、更に今後はダイハツ工場が加わる。

また、別府湾岸は新日鐵、昭和電工などの素材型産業と世界有数の東芝IC工場が既に1.8兆円産業として君臨。そこにキャノンの世界に対するマザー工場が立地し、“素材・IC・IT産業文化圏”として世界の工場エリアを名乗る要になりつつある。

また、これらの母都市としての福岡都市圏は、小売り等の“エンターテイメント文化圏”として2.6兆円の規模を誇るアジアでも最も活気ある注目都市。

そして、それらを結ぶ日田・九重・由布院・別府エリアは、それこそ日本を代表する“温泉観光文化産業圏”エリアであって、この四つの組み合わせは素晴らしい、世界に通用する観光資源でもあるはず。

我々は、このエリアを自らの地域として捉え、その地域資源を活かしつつ、ここに生まれ育った、あるいはここに縁を持つ喜びを感じつつ、上質な日常生活を粋におくれる地域作りこそが目指す処だろうと思っている。

そして、その一助にコアラやNPO観光コアラ、インターネットが役だつことを願っている。